動機が純粋であり、私心がない
古代インドのサンスクリット語で「偉大な人物の行動の成功は、その行動の手段によるよりも、その人の心の純粋さによる」
前回の朝礼のテーマ「動機善なりや、私心なかりしか」とも多分に共通するが、私利私欲から起こした行動と、世のため人のためにと純粋な利他の心で起こした行動とでは、自ずと結果が違ってくる。
利他の行動は、例えばピンチになったり困ったときに、助けてくれる人が現れる。というより、周りの人が手助けしてあげたいという気持ちになる。
一方、利己的な行いは、私利私欲から端を発しているので、手助けしよう、、なんて気もおきない。
むしろ潰されてしまうだろう。
株主の権利を声高に主張した人たちがいた
何年か前、株主の権利を声高に主張し、あたかも自分たちの利益のためだけに配当を増やすよう要求する 何とかファンドや、
株式交換を巧みに使いM&Aを繰り返し、球団の買収やテレビ局までも傘下に収めようとした人たちがいた。
あたかも法律に触れなければ何しても構わない、、と言わんばかりで 目に余る行為思えていた。
まだ社会経験がそんなに豊富ではなかった自分が見ていて、「ああいう強引なやり方は、10年は続かないだろうな」と思っていた。
そしたら5年も経たずに表舞台から消え去った。
実際には法律にも触れていたようで、、法の裁きを受けることになったのだが。。
まさに今日のテーマ「純粋な心で人生を歩む」ことが、人として大切なことなんだと思う。
天が味方したくなるような行いを
ある著名人の講演を聴きに行ったとき、その人が「天が味方したくなるような行いを」と言っていた。
冒頭で、「ピンチのときに助けてくれる人が現れる」と言ったが、、周りの人だけでなく天の神様までもが味方してくれるような=純粋で利他の心に基づく行いをすべし、と。
同じような境遇にあっても、運良く救われる人と、運悪く転落していく人がいる。
単なる運/不運と思われがちだが、、よく言う「日頃の行い」っていうのは、本当にあると思う。
謙虚に反省することが大切
そうは言っても、我々凡人は聖人君子ではないので、常に正しい行いばかりできるわけではない。
しかし、それを謙虚に反省し、少しずつでも改めていく姿勢が大切なんだと思う。